きのうから雨模様の天候が続いています、朝道路標示は十度近くになっていますが、今だ私は目覚める季節になっていません心が閉じたママですがっこ山にはもう雪は残っていないのですが急激な変化が老人になり良寛の世界に入りつつあります「わらながらうれしくもある弥陀佛のいますみ国に行くと思へば」「形見とて何かのこさむ春は花山ほととぎす秋はもみぢ葉」齢七十ウン歳で亡くなったのであれば私もその域に手が届きそうもう覚悟だけはと、そういう奴がイジ汚く生き、死に損じるらしい老人は歩行、食事、排泄、入浴など日常のこといづれ介助してもらっていきるほかないらしい。脳の老化と痴呆は別らしいがボケがくるのは拒みようがない、新聞でもテレビでもこれでもかと言うくらい予防にと健康食品と称して宣伝していますがもうウンざりです。
最後は神か仏にすがるのが一番でしょうか形のない八百万の神に御頼み申します。
このあいだ蕎麦を打ったからとご馳走になりに行きました
途中から国立の隠居にデンワを入れたらもう二合飲んで出来上がりそうだと言ってました、まだ午後の一時過ぎでしたが、ついでに蕎麦の出前の注文を受けていましたが三人前で完売と断られていました、主人曰く十六度を越えると蕎麦粉にムシが湧くそうです、桜の花芽も渓流釣りの羽虫もその頃飛び立つそうで自然界の蠢きもそこら辺の気温が基準なのかな。国立からの花便りはグレーゾーンに生息している我々儚い生物には一縷の望みでした、でも私ががっこ山から雪で折れた、老いた桜の木から頂いてきた小枝も芽が大分膨らんでピンク色を覗かせてきています、遅ればせながら間もなく桜の花が見られることと期待をしていますと言って私のヤマイが直るわけではないのだが。
隠居様よくカワセミを写してきましたね、ピントも合って
やはり使いこなしているから随分腕を上げましたね、私は老眼もススンデもう駄目ですし整理機能が麻痺して左右の方向も怪しくなってきました、散歩に出るときは迷子札をぶら下げられ、スーパー、コンビには立ち入り禁止、車の操縦は勿論となりつつ‥‥‥‥いかに死ぬために残り僅かのジカンをいきるか。和かに生きられるか幸せに尊厳をもって過ごせる哲学をおしえてナベちゃん(どこへ消えてしまたのかあれほど大量の哲学書をもって、ナベちゃんのツケのおかげで本屋さんも居なくなってしまった)
最近では普通に死んだらとか、ボケとかが話せる社会になったのは幸せなのか、介護を受けながら死についてのケアとか心安らかに死を受け入れることが大切なのか。自分がわからなくなっても生き長らえることが人間として幸せなんでしょうかね。老いて生きてるは子や孫にとっては負担であることは確かで、程よい時期があるのでしょうね。
隠居の撮ったカワセミ
がっこ山の拾った桜の枝
最後の蕎麦です、ごちそうさま
当分このまま、ねていたい
沈む朝の月
沈む夕日
新装になったJR湯沢駅
今だ盛況の限りです。