大松川ダムの上流にあった福万、外山に久しぶりに行ってみました芝桜祭りを通り越して出かけました。福万の辺りにはまったく人家の面影はなく夏場にダムの水位がさがり湖底が表れるとかっての秋田県随一の福万の黒沢勘十郎の屋敷跡が見えるそうです秋田市にある国指定の重文の奈良家より大規模な建築構造物だったそうです。江戸時代後期の上層農家の構えがなぜ秋田の外れそのまた外れの山内にあったかとても興味深いです。この地は最近ダム工事で水没するまで重要な街道筋だったようです北に向かえば六郷、東は湯田の左草、西の方向には横手美入野と現在の地名ですが、そのほか隠れ小道などがあり飢饉のときにはその道を辿り秋田の方へ逃げて避難して来たようです。山内の福万は昭和の頃まで秋田県の木炭や薪など燃料供給地で横手川を下り、横手市の大町まで流れを利用し運搬していたそうです。大松川ダムの完成により最も恩恵を受けたのは横手市民のようです、昭和四十年頃まで度々大きな水害があり横手市は甚大な水害に被害に遭っていたようです。外山部落に行ってみましたら田植えをしていました、また畑なども耕作し最初訪ねた頃の外山の面影が甦っていました。昭和の十年頃には沢水を利用し用水路を引きようやく米作りが出来るようになったそうですが、それでも部落の人達は米に大根,フキ、イモなどを混ぜ食べていたようです。炭焼き山菜採りで現金を得て米を買いそれでも足りない分は若勢として奉公して外山の人々は賃金を貰い米を買い凌いでいました。もっと田圃を増やすことをおもい昭和23年頃から大変な苦労をして狭い土地の開墾に力を入れ昭和30年頃にようやく飯米を確保でき余った米を売ることが出来るようになったと聞きます。そんな福万、外山をみたいと思い出掛けてみました。ダムの建設でこの地を離れた人たちの思いは図り知りませんがたまに訪れ先人の苦労を偲ばれてみてはいかがでしょうか。
田植えが済んだ田圃
大松川ダム満々と水を貯えています
にほんたんぽ、まだ田舎には咲いていますが、すぐ傍に
西洋タンポポが迫っています~
ドローン襲来 個体数が少ないみたい
狭いたんぼには重宝らしい。適材適所